ビー玉を覗いた世界で生きる

ハンディのある自分を知るために書いてみます

大嫌いだった課題

学生時代、苦手だった宿題

ワースト1位が読書感想文です。

 

 お世辞にも成績優秀だったとは言えませんが、小学校の頃は100点をもらうことが多かったように思います。

 中学校にあがって3年間ほとんど学級崩壊を起こしていたので教室は動物園と化し、聴覚過敏もあいまって授業は何も聞こえず、赤ちゃんの声や子供、女性の声といった高音が苦手なので学校は苦痛でしかありませんでした。

 家庭も特に不安定な時期だったので日夜イライラしてどうやって人を傷つける事かという事ばかり考えていました。誰も信じないように、近づく人間は全員敵だと認識して身を守っていました。勉強なんてとてもできる精神状態じゃなかったと言えば言い訳ですが、辛うじて人としてのレベルで道を踏み外さなかったのは奇跡に近いと思います。

 

 そんななか、それでも比較的好きだった国語の宿題で一番嫌いなものでした。

 理由は「思った事を書いても先生が望む言葉を使わないと書き直しだから」「影響も受けないし感動もしない。特に何も思わないから、無理矢理書くとどうしても説明文になる」

 といった感じでしょうか。

 

 今やインターネットが普及して宿題はコピペすると言う技がありますが、私の実家にはパソコンを使う者がおらず当然Wi-Fiなんてありませんでした。

 

 もともと本の虫と呼んで差し支えのないレベルで読書は好きでした。当時から語彙が少ないほうだったとも思いません。ただ、私は読書をする時に俯瞰で見ます。フィクションの物語や推理小説を好み、登場人物や事件が起きている部屋、旅路の風景が映像で浮かぶのでどこからか覗き見をしているような感覚です。

 熱中するほどの本を読んでいれば登場人物達は動きますし、喋ります。街道で馬車に揺られる振動も、架空の酒場の匂いも、そこにはあります。私の感性では、それらを感じる以上のことは無いのです。

 

 「他人に伝わるように文章を書けるか」でしたら未だに自信は無いです。文章構成も言葉選びも上手いとは思えません。

 「物語や登場人物の背景を考えましょう」の意味は未だにわかりません。正直、読み手の自由だと思っています。

 恐らく、ネックだったのは「指導者が望む文章を書かなければいけない」こと。

 

 実際の採点基準がどうなのかはわかりませんが、未だにそういう課題だと思っています。

 とある詩を書く授業で、1枚目は書き直しだったのに2枚目は文集の佳作になったものがありました。当時の担任の先生が大嫌いで1枚目は思うがままに、2枚目を書く際にふと教室に掲げてある標語を見上げて意地悪な気持ちで書いたものです。

 「大人はこういうものが欲しいんでしょ?」と、半ば投げやりに。それが佳作に乗ってしまったものだから、間違っても感性にいい影響はなかったでしょう。どういう作品が需要があるかは、わざわざ自分が感じたものを捻り出さなくても黒板の上や廊下、校内の至るところに大きく書いてあるのですから。「大人が欲しい答え」が証明されてしまったのです。

 

 それ以来、文章を使った類似の課題は苦手です。なぜ欲しい答えがあるのにわざわざ自由に書いていいようなふりをするのか、と。

 文章構成や句読点の使い方、語句の選びかたなどチェックするポイントは多々あるのでしょうが自由に書いていいふりをして自由ではない。それが文章だろうが音声だろうが、感じたままを表現していいようで様々な規制がある。

 

 曲がりなりにも大人になって、見えない規制が無いと世の中は無法地帯になってしまうと理解しましたが「何かを表現すること」はどんな形であれ未だに苦手です。